善楽寺縁起
善楽寺について 四国第三十番霊場 善楽寺「人生一生酒一升。あるかと思えばもう空か」(作者未詳)
当山は平安時代初期、弘法大師様が御巡錫の際、高鴨神社(今の土佐一宮神社)の森厳幽遠なる霊域が深く御意に適われ、北部一帯の渓谷が百谷あれば入定の地に定めんと谷々を検分されましたが、九十九谷しかなく、当山を開創されて一谷を補い、山号を百々山(どどざん)と名付けられ四国第30番霊場とお定めになられました。以後、長曾我部氏や山内公の帰依深く明治の廃仏毀釈まで法灯を維持していたと伝えられています。
◀ 土佐一宮図(「四国巡礼霊場記」巻五より)
明治の廃仏毀釈で当山善楽寺は廃寺となり、明治9年にいち早く復興を遂げた安楽寺が、30番の万灯を絶やしてはならぬと公許を経て30番霊場の業務を代わりに行っておりました。善楽寺は昭和5年に心ある一宮村民の尽力により無事再興され、平成6年に四国第30番は善楽寺、安楽寺は30番の奥の院と相成り今日に至っております。
霊場の中でも復興が遅かった善楽寺。 ▶
▲大師堂前におわします修行大師様。ご本尊様以外にも境内にはお不動さんやお地蔵さん等様々な仏様が鎮座されております。
時代の波に翻弄された善楽寺。一時は、廃寺になった後に代行を務めた安楽寺と復興した善楽寺と、30番が2ヶ寺存在し「遍路迷わせの札所」といわれていたほどお遍路さんを困惑させていた時代もありました。しかし前述したとおり、弘法大師様が定めた当山善楽寺のみが30番となりましたので、30番の朱印は、安楽寺では現在行われておりません。(30番以外のところへ奥の院としての朱印は行っております。)
ひとおおく たちあつまれる いちのみや
むかしもいまも さかえぬるかな
当山の御詠歌にもあるように、法難の危機を乗り越え、今も弘法大師様は自らが定められたこの地で御本尊様と共に、来山されたお遍路さんやお参りの方々を見護り、見送っておられます。
むかしもいまも さかえぬるかな
当山の御詠歌にもあるように、法難の危機を乗り越え、今も弘法大師様は自らが定められたこの地で御本尊様と共に、来山されたお遍路さんやお参りの方々を見護り、見送っておられます。